ガリッ。
そんな音を立てて、奥歯で噛まれた飴が銀八の咥内で砕け散る。
その欠片を一つも残さぬように噛み終えるとデスクの上に置いておいた教科書類を手に持ち、準備室から出た。
「坂田先生」
何処か他人を見下した声が銀八を呼ぶ。一瞬、聞こえないふりをしようとも思ったがそれはそれで面倒くさい気がして「はい?」と返事をしながら気だるく顔をあげる。
すると、眼鏡を押し上げながら佇む相手と目が合った。
「探しましたよ。準備室に居たんですね」
隣のクラスの新任教師、伊東鴨太郎。
目ざとい彼に準備室から出て来た事を目撃されたのは、銀八にとって予測していない事態であった。
土方を視姦する放課後の日課を悟られてはいけないというのに。
「少し、僕のクラスで国語の伸びが悪い生徒がいましてね…それの相談をしたくて探してたんです」
「あー…そっすか」
ペタ、と銀八がだらしなく履いたスリッパの音が廊下に反響する。
「じゃ、職員室で話聞きますよ、伊東先生」
「はい」
実は銀八には伊東を警戒する理由があった。
土方を視ていると自然と気付くその存在。
好意なのかは分からないが、確実に伊東も土方に視線を向けているのだ。
(あーあ、まぁ確かに土方は別嬪だしなァ…まぁだからって、俺ン所の生徒に手は出させねーけど?)
そんな事を考えながら銀八は口の中で笑う。
土方を手篭めにするなら早目が良いと、直感が告げたからだ。
『そんな風に笑わないで』
「そういやさ、晋助は結局進路、どうする事にしたんだ?」
「あー?なんかこないだ、親から久々に電話来てさ」
夕陽が差す公園。
この場に居るにふさわしいであろう子供達は、先程母親の手に引かれて家に帰っていった。
代わりに公園の片隅に位置するブランコを漕いでいるのは高校生である自分達。
昔から変わらないこの辺りの光景と、隣の幼馴染が土方は大好きだった。
「お前がしたいようにしろってさ。
大学行きてーなら金は出すから、心配もしなくて良いって言うし」
「そっか…」
言いながら、土方はブランコをキイ、と鳴らす。
(したいようにって…少しくらい親っぽく口出してやれば良いのに…)
幼馴染の高杉晋助は昔から一人だ。
否、両親が他界しただとか離婚しただとかではない。
しかし世界を飛び回る仕事のせいか、彼の両親は殆ど日本に居ない。
土方がその事情に気付くまで、高杉はずっと家政婦の作った食事を取り、夜は一人で居た。
「オイ、十四郎。お前また何か深刻に考えてるだろ」
「いて」
軽く手の甲で頭を高杉に叩かれる。何すんだよ、と言おうとすると優しく笑む高杉の顔が視界に入った。
「もう、只泣き喚いているだけのガキじゃねーからよ、俺も」
「晋助…」
そう、高杉は優しい。
その鋭い眼差しと他人を寄せ付けない雰囲気、そして中学時代の噂のせいか、学校の皆は彼を恐れるが本来、高杉はとても優しい人間なのだ。
そうでなければ、こうしていつ帰るとも知れない両親を待ち続けたりしない。
誰も知らなくても土方だけが知っている事実。
それは土方の中の、小さな自慢でもあった。
「十四郎、俺も受験する。勉強して、お前と一緒に大学行きたい」
「あ、ああ、そうだよ。一緒に行こうぜ」
「まぁ、勉強が間に合うかは分からねーが…」
「間に合うって。お前、昔から本気になれば呑み込み早ぇじゃん」
そう言って笑いかけると、言ってくれるじゃねーかと高杉も笑う。そしてブランコを彼は漕ぎ始めた。夕陽を浴びたその幼馴染の姿を見ながら、土方は一日の終わりにいつも誓っていた。
両親も誰も、彼の傍に居ないというのならば自分だけは最後まで、高杉晋助の隣に居ようと。
「晋助、今日はうちで夕飯食ってけよ」
「え…でも、いきなり邪魔したらお前の母さん困らねぇか?」
「馬鹿言えよ。むしろ喜ぶ」
もう良い大人だから、と言って高杉は家政婦を呼ばなくなった。
だからといって自炊が出来ない彼は、食事をコンビにだとか外食で済ませている事を土方は知っている。
そうだ。受験が終わったら、母さんに料理を習おう。
そうして晋助と一緒に、彼しか居ないマンションで二人で面白可笑しく料理を作ろう。
一人、土方はそれを密かな楽しみとして決めた。
それは永遠に叶えられない事を、彼はその時知らなかった。
「土方君、お早う」
「あ、伊東先生。お早う御座います」
その日、土方は日直だった為、教室の鍵開けとして早めに登校した。
この時間は裏門しか開いて居ないからそちらへ回ると、猫に餌をやる伊東と遭遇する。
「随分と早いじゃないか。今日は日直かな」
「はい。先生こそ。…もしかして猫に餌をやる為ですか?」
「はは。なんだかもう、日課のようになってしまったよ」
そう言った伊東の手に三匹の猫は擦り寄ってゴロゴロと喉を鳴らす。
…猫達は、土方が見つけた時は生まれたばかりで明らかに捨てられた様子で雨に打たれていた。
そう、あれは晋助と帰っていた時だった、と土方は思い出す。
『十四郎、もう行こうぜ』
傘をユラユラと揺らしながら晋助が言う。
でも、と俺が言おうとするのを予測していたかのように彼は遮った。
『あのな。ここで立ち止まってたって仕方ねーだろうが。期待させちまうだけ残酷だって事、分かってんのかい?』
晋助の言う通りだ。
俺がここにこうして見つめているだけで、相手は連れて行って貰えると期待をしているに違いない。
にゃー
か細く温もりを求める声が、雨の音に交じって鼓膜に響く。
『…俺、家に連れ帰る』
『はぁ?お前ン家の母さん、動物嫌いだろーが』
『じゃあ、晋助の家に…』
『うちはフローリングだぞ』
『…じゃあ保健所』
『連れてった所で、引き取り手が見つからずに殺されるかもな』
『…〜ッ!どうしろってんだよ、じゃあ!』
雨が降る。
冷たい雨。
こんな、他の者の手を借りなければ生きていけない小さな命を、何故こんな雨が降る中ダンボール箱に入れて捨てて行けるんだ。
なんでそんな勝手な人間が居るんだ。
『俺達じゃどうしようもねーって話さ』
何かを諦めた風に晋助は言う。
『十四郎みてぇにそうやって気にかけてくれる奴も居れば、そいつら捨てるような奴らも居るって事さ』
俺の両親は俺に興味がない。
いつだか晋助はそう言っていた。
愛してるでもなく、嫌悪しているでもなく。
只単に、興味がないのだと。
十四郎は違うみてぇだけどな、と付け加えてはにかんだのを俺は今でも覚えている。
『晋助…』
『どうしたんだい君達、こんな所で』
そんなやり取りをしていた学校帰りに、伊東が偶然そこに通りかかったのだ。
「伊東先生、ありがとうございます」
「え?」
取っ付き難い新任教師、と言われている伊東。だが高杉同様、彼がそんなに冷たい人間ではない事を土方は知っていた。
「先生が校長に学校で飼おうと頼んでくれたおかげで、そいつ等は死なずに済んだ」
「…お礼を言われる事の程じゃない」
土方の言葉に、眼鏡の奥で目を見開いた後に照れた様子で伊東は視線を逸らす。
多分、彼も単に不器用な人間なのだろうと感じて思わず口元が緩む。
「そんな事言わずに、俺のお礼受け取って下さいよ」
「…土方君。良いから早く教室に行きなさい。君は日直だろう…」
「おはよぉ、土方」
朝の学校で、教師と生徒の他愛の無い会話。伊東は高杉の担任だ。この何気ない雰囲気の中、彼の相談を土方は持ちかけようとしたのだが名指しの挨拶に思わず背筋が凍る。
思わず顔を上げれば、そこにはだらしなく白衣を羽織り、生気のない目を持った銀髪教師。
何も言えずに居ると更に追随の声がかけられた。
「おはよって言ってんじゃん。先生の挨拶無視すんの?」
「い、いえ。おはようございます…」