俺には兄弟がいない。世間で言う一人っ子だ。
両親は健在だし家庭も円満で、特に不自由な思いをしているわけじゃない。

只、時々思う事は兄弟が居るってどういう感覚なのだろうと考える時はある。
居ても邪魔なだけ、という奴も居れば、居てくれて良かった、と言う奴も居る。
きっと家庭によって様々なのだろうけれど、でも、時々、思う。
血を分けた…否、血が繋がっていなくても良い。
この世でお互いだけの、兄弟と言う存在は一体どういうものなのだろう、と。

晋助には、年の離れた兄が居た。
亡くなってしまったのが俺も晋助も幼かった時だったのもあって、アイツはその事をあまり話さない。

晋助の兄が亡くなってから、高杉家の様子は一気に変わってしまったから。
多分、晋助は勿論、おじさんとおばさんにとってもとても大切な存在だったのだと思う。
俺は会った事がないから分からないけれど、でも、彼を失くした事はきっと心を潰されるような気持ちだったと思う。
確かに晋助はそんなに活発な子どもでもなかった。
でも、嬉しい時は笑っていたし、そりゃあひねくれている部分もあるけれど、でも素直な子どもだった。

そんな晋助が、お兄さんを失くしてから変わってしまったのはきっと、そういう事なのだろうと思った。
皮肉を込めた笑い方はするけれど心から笑う事は無くなったようだし、中学に上がってからは俺も知らない奴らとつるみ、学校を休む事もしばしばあった。殴られてボロボロになって俺の家へ転がり込んで来た事もあった。

おじさんとおばさんは息子の死という現実から逃げるように海外へ渡り、仕事に没頭。というのは晋助から聞いた話だけれど、きっと真実なんだろうと思う。
生活費やら諸々の金は相当な金額を晋助に出してくれているようだけど、アイツがこんなに荒れているのは、おじさん達はきっと知らないんだろう。
こちらから連絡はしないし、向こうからも連絡を殆どよこさないらしいから。

晋助は大抵ボロボロになった時に俺の家に来る。
『息子の幼馴染の晋ちゃん』が、毎度怪我だらけでやってくるから心配する母親をよそに、俺はいつも自分の部屋に連れ込んで晋助の怪我の手当てをする。
どうしていつもこんな怪我をするんだろう、と思っていた。喧嘩だけが理由なんだろうか。
気になっていたけれど、俺は訊けなかった。

こういう時、晋助のお兄さんならどうするんだろうといつも考えてしまうからだ。
彼なら、兄弟ならこんな時にどうするんだろう、と。
一人っ子の俺には見当もつかない問いと答え。

でも俺は、手当てしている間ずっと黙って項垂れている彼を、なんとか救ってやりたかった。
晋助はきっと俺に助けを求めてる。そんな気がしたからだ。
自惚れや自意識過剰かも知れないけれどそう思った。

寂しい筈が無いと、思った。
兄弟を亡くして、両親も誰も居ない家に帰って一人で食事なんて寂しくないわけがない。
俺は一人の悲しさを知ってる。
晋助に出会う前の俺は、友達というのを作るのが苦手な子どもだった。
すぐに誰かを殴り、喧嘩をふっかけ、大人を困らせていた。
乱暴者の俺に皆恐がって、友人なんて出来る筈もなかった。
それが余計に俺を苛立たせた。どうしたら良いか分からない苛立ちだった。

そんな俺が、晋助に出会えた。
アイツは俺に出会ってくれた。だから。

『晋助、明日の夕飯は、うちで一緒に食おう』

兄弟がいない俺に誰かが傍に居てくれる事の大切さを教えてくれた。
同じ世界で、同じものを見てくれる人が居てくれる事の大切さを教えてくれた。
その晋助が失って、もう取り戻せないのなら俺が傍に居ると、誓った。
何処にも帰れない彼を救うのは俺しかいないと思った。
その過信は何処からくるものなのかは分からなかったけれど。

『十四、郎。俺、なんで』

俺が提案を聞いて、少し経った後に晋助が口を開いた。
声の調子から泣いているのが分かった。

『なんで、こうなっちまったんだろう、なん、で』

晋助の問いに答えられない俺は、泣きじゃくり始める彼の体を抱き締めた。
俺より身長の低いその背中がとてもちっぽけで、それでいて背負いきれない何かを抱えてたんだろう。

『こんな世界、壊したくて、しかたねぇのに…』

だから、嬉しかった。
晋助が勉強して、俺と一緒に大学に行きたいと言ってくれて嬉しかった。
世界を拒んでいた彼が未来の話をしてくれたのが嬉しかった。
壊したい世界の一部でしかなかった俺と、一緒の未来を選んでくれた事が。

誰も俺に興味が…両親ですら俺に興味がない。
そう言う晋助を俺は守りたかった。
俺が彼を大切なのはきっと、そういう単純な理由なんだ。

今にも消えそうに笑う彼に、そんな風に笑わないでと言えるような世界に、と。



「お早う御座います、伊東先生」

体がだるくて仕方なかった。
しかし休むわけにもいかない。学校へ行かなければという使命感のようなものが土方にはあった。
担任である銀八には嫌でも顔を合わせる事になってしまうのだが、受験生である手前、よほどの体調の悪さで無い限り母親は休ませてくれないだろう。
しかも母親には昨晩土方は、銀八と勉強会をしていた事になっている。
とんでもない嘘ではあるがだからと言って『担任に騙されて公衆の面前で犯され、更にその後も暴行された』などとあまりにも現実離れしており、真実を伝える気を憚らせる程だ。
土方自身、嘘であると思いたかったがそこかしこに残る男達に残された愛撫の痕は紛れも無い事実を教えていた。

勿論自宅に帰って寝付ける筈も無く、殆ど睡眠も取らずに土方は朝早く登校した。
この時間は伊東が猫に餌をやる時間なのは知っていたが、寄らずに教室へ直行するつもりでいた。
伊東と二人きりで話している所を銀八に目撃されてしまえば、昨日の様子からして彼は伊東をあまりよく思っていないのだろう。その後に何をされるか分からない。

(でも…)

だが、土方の足は教室へと向かわなかった。伊東は高杉の担任だ。余計な世話かも知れないがどうしても伝えておきたい事があったのだ。

「ああ、お早う。土方君」

丁度餌を食べ始めた時だったようで、伊東の周りには猫が群がっていた。
何度か見てきたこの光景がまるで別世界の風景のように見える。

「先生、今日は眼鏡かけてないんですね」
「え?ああ、昨晩にうっかり壊してしまってね」

伊東の何かが違うと思ってみればいつもつけている眼鏡をしていないのだ。
土方が指摘すると仕方がないからコンタクトなんだ、と笑う。伊東が眼鏡をかけていない姿は違う男のように見えた。

「先生はコンタクトより眼鏡の方が良いんですか?」
「僕はコンタクトが嫌いなんだ。目が乾くし。・・・それに」
「それに?」
「いや、大した理由じゃないんだ。
 僕には双子の兄がいてね。あまりにもそっくりだから、間違われないように僕は眼鏡をつけるようにしたんだ」
「お兄さんが、いるんですか」

どんな兄なのかと訊きたかったが、あまり伊東が良い表情をしないのでそれ以上の追求をやめた。
双子、と言えば銀八にも双子の弟がいた事を思い出す。
髪の色が向こうは金色であったが、その顔は眼鏡を外した銀八そっくりであった。
あまり感情を映さないその瞳すらも。

「あ、そういえば昨日、高杉君に会ったよ」
「晋助に?会ったってどこで…」

突然高杉の話題を出され、土方は弾かれたように顔を上げる。
そこで自分が、銀八の事を考えて今まで項垂れていたのだという事に気付いた。

「彼が図書館から出てきた所に丁度出くわして、僕に気付いて会釈してくれたんだ。受験勉強していたようだよ」
「そう、ですか」

伊東の顔を窺ってみるともう表情は曇っていなかった。伝えるなら今がチャンスではないかと土方は口を開く。

「伊東先生、あの」
「なんだい?」
「先生がアイツの担任だからってワケじゃないんです。
その、晋助・・・高杉の事、見捨てないでやってくれませんか」

なんと言うべきなのかわからなかったが、正直な気持ちを土方は伝えた。
すると伊東が驚いたように目を見開きながらこちらを見てくる。

「アイツ、まともに朝から学校来ないし、授業態度もそんなに良い方じゃないかも知れません。
 でも先生も見た通り高杉はすげぇ今一番、頑張ってるんです。
 俺、アイツの事昔から知ってるからそういうのが分かるんです。その、だから…」
「土方君。君が何を心配しているのか分からないけど、僕は生徒の誰をも見限ったりしないよ」

どう言葉を紡いだら良いのか分からなかった。
親でも家族でもないたかが幼馴染の自分が、偉そうに高杉を頼める立場でない事は知っている。
しかし、大人を信じない彼が会釈をしたという事は少しでも伊東を信頼した証拠だ。
だからこそ縋るような気持ちで土方は話を切り出したのだが、伊東の答えはやけにあっさりしたものだった。

「確かに君の言う通り、高杉君ははっきり言ってしまえばそんなに評判が良くない生徒だよ。
 でも最近の彼は前と違って学校にも来るようになったし授業もちゃんと受けてる。
 僕はそれを見ているし知ってるから絶対に見捨てたりしないよ。」

何の可能性も期待されない悲しさを、僕は知っているから。

そう付け加えて伊東は笑う。
なんとなくその笑い方は、高杉と被って見えた。
先程の双子の兄の話と言い彼も昔、何かを乗り越えるべきものがあった人間なのかも知れない。
だからこそ土方にそう言ってくれるのかも知れない。

少しだけ温かくなった心を嬉しく思いながら伊東と分かれ、土方は教室へ向かう。
昨晩高杉に送ったメールへの返信はなかった。
やはりメールではなくしっかりこれからの事も話そう。
そう考えて廊下を歩いていると、突如腕を引っ張られ、口を塞がれた。

「んんう!?」

そして誰も居ない教室へと乱暴に押し込まれ、床に倒れた。

「ひーじかーたクン」

土方を連れ込んだ人物が後ろ手に扉を閉めながら、楽しげに名前を呼ぶ。

「銀八、せん、せ」
「伊東センセと随分楽しそうに話してたねー何を話してたー?」

きゅ、と銀八が無造作にはいたスリッパが音を立てる。

「先生に教えてよー」

そして最後に、やけに赤い銀八の舌が楽しげに唇を舐めた。

next div>