明日になれば、全部元通りだと思っていた。
伊東先生に挨拶して、猫の餌やりを見て。それで教室で近藤さんや総悟に会って。
それでHRの後には晋助に謝ろうと思った。昨日は一緒に帰れなくてごめんって。
今日は一緒に帰ろう。俺の家で受験勉強でもするかって。言おうと思っていた。
昨日の事なんて何一つ無かった事に出来れば、って思ってた。
そうしてまた、晋助や近藤さん達と過ごす何気ない日常に戻れると思ってた。

でも『先生』は違った。
昨日で終わりじゃなかった。飽きるまで俺から目を離さないつもりだ。
大人の考える事なんて俺には分からないけれど、でも、本能的にそう察知した。
もう昨日までの毎日は、二度と戻ってこない。
ならせめて、晋助は巻き込みたくない。
折角未来への目標も見つけて、尚且つ見守ってくれる伊東先生って存在まで出来た。
だったら、尚更だ。
晋助を巻き込むわけにはいかない。悟られるわけにはいかない。
俺の綺麗な宝物を汚すわけにはいかないんだよ。

『そんな風に笑わないで』

何も無い、という幼馴染に高杉は思わず激昂しそうになった。それぐらい感情が、一気に昂ったのだ。
しかしそれを決して表には出さなかった。感情を露にすれば土方は余計に真実を口にしなくなる。
ならば彼が自ら話すまで待つしかないのだ。それが歯痒い事だとしても。

「本当に、だな」

だが高杉は、今の状況をなんとかやり過ごそうとしている魂胆が丸見えの土方に念を押すのを忘れない。
ビク、と肩を震わせた土方は、それでもコクリと頷いた。

「先生と相談してただけだって。何疑ってんだよ」
「…十四郎ントコの先公って、坂田だよな。あの銀髪で眼鏡かけた」

坂田銀八。
ふと思い出し、その名前が頭に浮かぶ。
この高校に入ってから一度も高杉の担任になったことの無い男だが、生徒からは男女関係無く慕われているのは登校する日数が少なくても知っている。あの偉そうぶらない、のらりくらりした姿勢が良いんだとか。
だが高杉は気に入っていなかった。遠目からしか見た事がないが、あの目の奥の表情の無さは完全な善人とは思えない。
この世に完璧な善人など居やしない事は分かっているが、それでも銀八からは性質的な闇を持っているように感じる。
何処か、掴みどころの無い嫌な印象を受けていたのを高杉は覚えていた。

「そうだけど、なに」
「いいや。十四郎が進路についてなんて、何の相談かと思ってなァ」
「別に。…ちょっと成績とか、そんなんだ。なあ、もう良いだろ?早く授業、戻ろうぜ」

これ以上、問い詰めても無駄だろう。もう少し様子を見なければ土方は何も話してくれないのは明白だった。
それに受験をしようと考えている今、授業に戻ろうという相手の言い分は正しい。
とりあえず、教室に帰してやるか…そこまで考えて、高杉は何処かで何かが引っ掛かった。

「なァ十四郎。今日は一緒に帰れんだろーな」
「え?あ、ああ。勿論。久々にストレス発散にカラオケでも行こうか」

屋上から階下への階段を、そんな会話をしながら下りていてそこで高杉は、引っ掛かっていた違和感の正体に気付く。
例えば、だ。
例えば土方の様子が可笑しいのは昨日何かがあったからだとする。
彼は昨日は、坂田と進路相談をしていたと言っていた。
では、土方に何かをしたのは普通に考えれば坂田しか居ない事になる。
(何だ?何かを、された?十四郎が、坂田に?でも、何を)

「オーイ、不良共。そんな所にいやがったかー」

廊下に響く声。
それは、今しがた考えていた疑惑の人物、銀八の声である。
(後ろを歩いていた土方が銀八の登場に身を強張らせたのを高杉が気付ける筈がなかった)
ちっと思わず高杉は舌打ちをしたくなる。相変わらず目の前の教師は感情が読めないのだ。

「おめーら、進学希望なんだろー?サボってばっかだと成績下げられちまうぞー」
「…すみません、すぐに戻ります」
「ったく、幼馴染で仲良いのは分かるけどよーそれは休み時間とか放課後にしろよな」

謝りながら土方が高杉を追い越し、それにやはり感情のこもらない口調で銀八が声をかける。
そして、ぐ、と土方の肩を持つと『高杉クンも、ちゃんと授業戻りなさいよー』と彼は去り際に高杉に言った。

「・・・坂田センセー」

ここで、普段ならば担任に土方は好かれてるな、ぐらいにしか思わなかっただろう。
しかし高杉は土方の様子が可笑しいのは銀八のせいではないのか、と少しでも考えたのだ。
その予想が当たっているかは分からない。しかし不穏なものは土方に近づけたくはない。
だから、言ったのだ。挑発的に。

「俺とソイツが幼馴染だって事よく知ってたねェ」

晋助、やめろ。
瞬間的に、そう訴えるように土方が振り向く。
そして同じく、銀八も振り向いた。
彼は何を言ってくるだろう。高杉は身構えたものの

銀八はただ、何も言わずに微笑んだだけだった。
氷のような目で。

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